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2010.3.26 ちょいマジオヤジ部

ジャーナリスト専門学校なくなる

母校がなくなる。
これはかなり貴重な体験だろう。
3年前に産みの母親が死んだ時、
友人にお知らせを出そうとして名簿やアルバムを見ていて、
彼女の出身小・中学校がなくなっていたことがわかった。
金沢の山奥なので過疎が原因なはず。
その時は、僕の小中高はなくなる可能性はまずなさそうだから
そんなこともあるんだな、としか思わなかったものだ。

ところが、その後に3年間通った
日本ジャーナリスト専門学校が3月で閉校する。
たぶんそうなるだろうと情報筋から聞いたのは2008年の秋。
驚いたが、状況を考えれば納得はできた。
でも、とにかくまず、寂しかった。
ここに対して強い母校愛があると意識したことはなかったので、
そんな自分の気持ちが意外でもあった。

ネットのニュースで「ジャーナリストの時代は終った」という見解も見受けたが、
僕は、もっとシンプルに、経営者サイドの、理念の欠落、
先見性のなさ、あぐらをかいた姿勢が相まった失敗なんだと思う。
ジャーナリストは社会にとって重要な存在であり、
求めらない時代などないし、また、なくなってはいけない。
そして理念なしで、ビジネスオンリーにしてほしくはない。
もちろん生活との現実的な折り合いはつけて当然だが。

ジャーナリスト専門学校は、そうした志ある人たちの私塾的なものとして生まれた。
その中でも特に、端的に言うと、サヨクな人々である。
初代校長の、青地晨氏は、
冤罪の恐怖について執筆活動を続けていた。
僕は入学最初の授業が青地先生だった。
その頃は、青地先生以外にもジャーナリスト魂を携えた方々が、
それこそ「ジャーナリストを育成したい!」という理念に燃えていた。
そこに集まってくる学生も当初は目的が明確だったし
学校の規模も小さいうちは、先生と生徒がガチンコで意志を通じあわせていた。
しかし、僕が入学する前年に、学校法人となり、
<短大卒と同じ資格>を取得できる、なんてことになり、
たぶん宣伝にも力を入れ始めてのだろう。
理事はジャーナリスト出身ではなく経営者だから
やはりビジネスとして大きくしていきたかったはず。
僕が入ったころは定員を軽く超える詰め込み方で、
入ってくる学生も「大学落ちたからまあここなら聞こえもいいし」
という理由が大部分。
この時すでに閉校の序章は始まっていたとも言える。

僕自身は、ジャーナリスティックなものを書きたいとか、
そちら系の編集者になりたいと思っていたわけではなくノンポリ(笑)的で、
3年間で出版の中で何をやれるか考えようぐらいの漠としたビジョンでしかなかった。
それでも同級生たちの多くがあまりにも目標を持たないことに驚いた。
しかし、学校経営的にはホクホクだっただろう。
「総合科」「編集科」「ルポ科」「放送科」「広告科」という
専攻科のイメージもかっこよく響いていた。
大学じゃなくてもかっこいい世界に入れるかも、という幻想をつきつけて。
その後、どんどん規模を拡大し、新校舎も建設。破竹の勢いのように見えた。
しかし、大規模な生徒を抱える学校経営でジャーナリスト育成は無理があった。
だから、手遅れになる前に、まずは学校名を、
多くの生徒を集めやすい、時代に沿ったリアルなものに変えればよかった。
すでに入学してくる生徒も「ジャーナリスト」を目指す人はほんの一握りだったはず。
それは講義をしていて感じた。
ベタでいいから万人がイメージしやすい言葉で、
たとえばだけど、「クリエイティブ専門学校」「メディア専門学校」など
伝達するとかモノづくりなどの方向へ。
ジャーナリストは専攻科としてならアリだったかもしれない。

僕は、ここが正式に専門学校となってからの2期生。
3年コースの<総合科>に入ったのは、
芸大を形だけ3浪しバイトと酒と麻雀でぐだぐだな日々を過ごした後、
ここで将来に向けて建て直さねばと気合いが入ったから。
だから、人生で唯一、まじめに学校に通った。
学費を自分で払っていたので、サボるのがもったいないと考えてもいた。
たしか入学前に計算したら、1時間授業受けるのに800円ほどかかることを知り、
それが当時の名曲喫茶バイトの時給600円を軽々と超えていたことも
僕の背筋をしゃきっと伸ばした理由である。

同じ年にルポ科入学した中に、二宮清純氏がいた。
接点はなかったので話はしたことなかったけど、
学内フリーペーパー作るなどガッツ入ってすでに目立っていた。
出版の世界に入ってからは、
3年もかけてあんなママゴトのようなことをやったもんだと思ったけど、
その時はそれなりに学んだ気になっていて、
野球部を創設し初代主将となるなど、充実といえ充実した学校生活。
卒業時に総代となったのは、野球部監督が生徒課の職員だったから(笑)。

先生方、職員の方は、いい人が多く、がんばっていたはず。
最後の幕引き役となってしまった現・校長の、文芸評論家・上野昂志先生は、
設立以来の生え抜きで、僕も授業を受けていた。
その先生の最後のあいさつがサイトに載っていた
温厚な上野先生らしい誠実な文章である。
ここに書かれたように、2000年あたりから生徒数が減っていたようだ。
実はちょうどその頃、僕は何度か単発の講義をしに行った。
懇意にしている方から
(このままだとまずいので、まずは講師として関わりながら
少しずつ発言していってガツンと改革し建て直してみないか)
という話をいただいたことがある。
呑んでゆっくりと話を伺い相当迷ったのだが、
関わること片手間では気が済まなくなり、
事務所の運営や自分の本造りがとてもできなくなるりそうで辞退させていただいた。
しかし、自分なりに順序立てたビジョンはあったし、
成し遂げる目標の大きさからもやってみたい気持ちもあっただけに
その後もずっと、はらわたにもやもやしたものが残っていた。
「オマエはOBとして果たすことを果たさず逃げているんじゃないか」
ふとした時、そう、自分が自分に問うてくる。
すると、恩返しをしていない、とチクリと痛みが走るのだった。

そしてついに。
僕は何もすることなく、あと1週間で学校はなくなってしまう。
生まれて初めて、母校がなくなる思いを知る。
卒業式から25年。
寂しさと、少しのうしろめたさ。

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