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2019.1.23 野球部

20年一緒にプレーした15歳下の草野球仲間の退団に思う

18歳で始めた草野球、この春、41シーズン目を迎える。
そろそろベテランと呼ばれてもおかしくない年齢に突入し、
ますます野球の難しさ、深さを知る。
そんな中、僕が代表でプレイングマネジャーのチーム「星涼」から、
中心選手が退団する。
■「星涼」のメンバーリスト

彼、平井祐二は、15学年下の現在43歳。
98年夏に僕が37歳で初めて自分のチームを立ち上げた時からちょうど20年、
一緒にプレーしてきた。かけがえのない草野球仲間である。
小学校から中学までは、野村克也氏が立ち上げた
強豪シニア「港東ムース」の一期生。
関東一高では、夏の東東京の決勝で惜敗などなど、
星稜高校野球部に尻込みして入らなかったシロウトの僕から見たら、
野球を知り尽くした雲の上の「野球エリート」だ。
しかしその実力云々以前に、野球に対する姿勢、
ちいさなことへも手を抜かない野球知識、役割分担における責任感、
人としての誠実さなど、
草野球人生の中でもっとも多くのことを学ばせてもらった。
独学で野球の技術論や戦略論、実践的な草野球のことなど
人知れずそこそこ研究してきたつもりでがはあるが、
やはり長年ハイレベルな実戦の場を積み上げきた手練れの
見識は高いところにあるなと感心ばかり。

特に、
打てるとか打てないとか、ファインプレーとかエラーとか結果ではなく、
走塁・盗塁、カバーリング、フォーメーション、
守備ポジショニング、配球読み、フェイク、作戦など
表には出にくいことによく目が行き届いていた。
いつもチーム内で実力が劣る僕にも
カットプレーや走塁の地味なプレーを見てくれていて
「今日は石黒さんのあのプレーよかったですよ!」
と言われたことが昔から何度かありとても嬉しく
そのシーンは今でのもよく覚えている。
野村監督直伝の極意なども聞いたりして
さらっと口をつく言葉に大いに刺激を受けた。
飲みや食事の席、車で送ってもらうときなどに
野球のいろんなエピソードも聞いた。
野球に対しての思いと実践面の造詣の深さは
僕の出会った草野球プレーヤーでも指折りの存在。

そんな平井の退団は、僕の野球人生にとってかなり大きなできごとなので、
この喪失感をのちのち思い起こしたくなるだろう。
そして、自分の草野球人生の記録としての意味もあり、
長くなるけど、ブログにしっかりと書き残すことにする。

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彼が、昨年末にメールをくれた。
昨シーズン途中から仕事がすさまじく大変になり
ほぼ出られなくなっていたのだが、
このあともさらに激務になるとのことで退団したいと。
平井らしい誠実な文面だった(以下、抜粋)。

<正直なところ、体力、気力の低下が想像以上に大きく、
思ったようなプレーができないことにストレスが溜まり、
野球に対するモチベーションが大きく落ちてしまいました。
草野球なので割り切って楽しむべき、というご意見のあるかとは
思いますが、性格上、割り切ることができず、ご容赦ください。
また仕事の関係上、休日に野球に行くような時間が
取れなくなってしまったというのも事実です。
せっかく立ち上げメンバーに入れていただき、
石黒さんのチーム運営方針に賛同したうえでの参加にもかからず、
短期間での脱退で大変申し訳ありません。>

草野球チームでこなくなる人のかなり多くは
<なんとなくフェイドアウト>だ。
けじめなくずるずる抜けて、後始末にまとめ役が苦労するパターン。
対してこの平井の姿勢は素晴らしい。
しかも、たまに参加ならやらないほうがいい、ぐらいの心意気。

メールを受け、もちろん了承せざるを得ないながら
さびしさもあって暮れに電話で話した。
たまに助っ人でも来てねと言ったら
「これははっきり言っておいたほうがいいと思うんですが、
もう僕はプレーすること一生ないでしょう」と。
生半可には野球に接しないという、この覚悟にまたやられた。

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以下、平井の経歴と僕の関わりをさらっていく。

小学校から中学までは、野村克也氏が立ち上げた
強豪シニア「港東ムース」の一期生。
サッチーこと野村沙知代夫人がオーナーで、
選手はみんな「オーナー」と呼んでいたらしい。
野村克則氏は1つ上だったかな。
この頃は、神宮の室内練習場でもよく練習があったとか。

高校は、現在・日大三の名将・小倉監督を慕って
名門・関東一に進み外野手一本。
3年時の夏は、2番・センター。
東東京大会決勝で、エース・高橋尚成(元・巨人)の修徳に惜敗。
春の大会でコールド勝ちしていたという。
チームメイトには、現在、関東一の監督を務める、米沢監督がいた。

■決勝の米沢監督についての記事

■その試合についてなど平井本人のブログ

こんなすごいメンバーの中でレギュラーを張っていたにもかかわらず
平井は、大学で野球を続ける気はなかったという。
中学時代から他チームの全国レベルの選手と一緒になり、
フリー打撃でかんたんにスタンドに放り込むさまを見ていて
上を目指す野球は高校までと決めていたとか。

卒業後、スポーツライターを志し、日本ジャーナリスト専門学校に進む。
通称「ジャナ専」と呼ばれていたここは、僕の母校。
そして、まだ専門学校に認可されて2年目の学校に野球部を創設して、
初代主将になったのが僕である。
2010年になくなってしまったのだが、
■ジャーナリスト専門学校なくなる
文化系なイメージとは逆で、野球部が強かった。
専門学校野球大会で、あまたある体育系の専門学校を破り
東京代表になったこともある。準優勝も1度。
↓僕のブログ記事。
■奇跡の全国大会出場に初代主将は

平井は、大学野球はやらなかったものの、さすがに勧誘もあって野球部に入る。
彼が入学したときもかなりのレベルで、
1つ上には、日大山形で甲子園に出た、櫻井浩司、
東海大高輪台のエースで主将の、北爪貴之など
(2人ともいまも「星涼」で一緒)
実力者がたくさんいて、専門学校野球大会でも上位に食い込んでいた。

平井が選んだバイトがさすが野球好き、
神宮球場の雑務バイト。試合後のスタンドのそうじとかもやったとか。
その頃のバイト仲間に、現・星稜高校野球部の林監督もいたというのも
僕的には不思議な縁を感じる。

また、子供の頃から高校まで、東京における世代間の野球の中心にいたわけで、
野球関係者のつながりも広い。
ジャナ専時代、なんとコカコーラのCMに外野手の役で出演している!
スタンド際の飛球を追ってスーパーキャッチする役だけど顔はわからない(笑)。

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とかエピソードはつきないのだが、そんな平井と僕がつながったのは、1998年。
GWに、ずっとジャナ専の監督だった、三好さんの家に遊びにいったのだが、
そこに前出の甲子園ボーイ・櫻井もいた。
(いまはおっさんだがこの頃はまだぎりぎりボーイでも……)
三好さんから、「石黒、おまえ、ジャナ専野球部のOBチームでも作らんかいっ!」
と関西弁でそそのかされ、初代主将として燃えるものがあった。
加えて、ちょうど、トレボンズという日芸OB主体のチームで
数年間、毎週先発マウンドで5イニング投げていて、
絵草野球の研鑚・研究・向上に本気で取り組み始めていた時期でもあったので、
やると決めてすかさず動いた。
当時はまだメールより電話がメイン。
OB名簿で電話をかけまくって、僕が36歳で、
一番下は櫻井の2歳下、21歳の沖高行(やはりいまも「星涼」で一緒)まで、
20人ほどを夏までに集めた。
当時の、懐かしい選手リストがまだネットに生きている。
■ブルー・オレンジ・スタジアム軟式野球部

この通称「BOS」というチーム、経験者ばかりなのでさすがにそこそこ強かった。
初年度、練習試合だけでスタートしたのだが、
ある試合で審判をやって頂いた臼井さんという人が、
私設リーグを運営していて、試合後に誘われ加盟することにした。
その試合は、前出の北爪投手がノーヒッターをやったからかも……。

新加入で3部からスタートしたが、全勝で2部、全勝で1部と
3年目で1部に上がったが、さすがに1部の壁は厚く、優勝は叶わなかった。
リーグは年に10試合程度だったが、
このチームではほとんど毎週、集まってプレーした。
そしてまだ未婚も多く、終わると必ず、居酒屋で飲み、いろんな話しをして楽しんだ。
6年ほど活動を続けたのだが、
みんな忙しくなり始めなかなか人数集まらないときも増えていったのと、
なにより代表でプレイングマネジャーの僕自身が、
仕事で土日を食われることが多くなった時期が重なり
あまりにもきつくなり、
チームを率いる立場としても中途半端にできす、
後ろ髪引かれるように、かつ、仲間への心苦しさいっぱいで
思い切って休部を決断した。
いまの平井もこの時の僕と同じ気持ちなのだろう。

その後10年ほど
僕は、文春野球部ほかいくつかのチームに所属し毎週プレーしていたが、
2016年前に草野球人生総括のつもりで、ふたたび自分のチームを立ち上げた。
構想から2年、納得のいくチーム作りをと。

草野球チーム「星涼」創設への宣言文

この時、まっさきに電話したのが、沖、平井、櫻井の
旧BOSの3人。
特に、平井には、運営含め大きな期待をしていた。
始まるとやはり、グランド取得や運営のヘルプ的役割分担の意識も高く、
試合前後ミーティングなどでも、試合内容にも
押しつけではない前向きな意見も出してくれた。

そして3年間、僕は50代、平井は40代となって
ふたたびグランドで時を過ごし、思い出づくりを共有できた。
もう同じフィールドに立つことはないのかと思うとさびしいのだが、
こんな潔い身の引き方をしたことで、
僕の中には、平井という野球人への尊敬がさらに膨らんだ。

平井、こんなヘタな僕でも
長い間一緒にプレーできて幸せでした。
ありがとう。

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