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2015.9.7 お店部

純喫茶で育ち働き恋をして。金沢からお茶の水。

2年がかりでプロデュース・編集した『純喫茶へ、1000軒』。
難波里奈さん、アスペクト刊。7/25売。
ブログ「純喫茶コレクション」
発売10日で重版と絶好調。
ひとかたならぬ思い入れがあるからこそ、
僕がどうしても残したかった純喫茶本。
そんな想いを、この本のうしろに、解説的エッセイとして4Pで記しました。
特別に全文公開します。

純喫茶で育ち働き恋をして。金沢からお茶の水。
                 石黒謙吾(著述家・編集者)

 お茶の水駅前・駿河台上にあった「名曲珈琲 丘」が閉店したのは1983年秋。いまや伝説となった純喫茶は、70年代フォークの名曲「学生街の喫茶店」(ガロ)のモデルになった店と言われてもいるが、それは都市伝説か。なぜなら歌詞には「片隅で聞いていたボブ・ディラン」とあるけれど、クラシックしか流れていなかったのだから。
 この本を手にしたあなたならば、純喫茶にまつわる、華やぐような、もしくは甘酸っぱかったり苦かったりする記憶のかけらがいくつもあるだろう。僕にとっては最大の思い出が「名曲珈琲 丘」だ。「うちは、東洋一の規模なんだぞ」と、面接に行った日に「支配人」(マスターというスケール感ではない)から聞かされていたそのお店が。
 焦げ茶色の木の造作が美しい螺旋階段が地下から5階まで続き2000人収容。20人以上の団体専用の地下だけで200席あった。螺旋階段の中心を吹き抜けるように3階から1階まで下がる巨大なシャンデリアが圧巻で。本書の最初に紹介されている御徒町「純喫茶 丘」とは経営者が兄弟だったから造りの雰囲気はかなり似ている。けれど、シャンデリアは、18ページにある写真の5倍はゆうにあった。年に2度、その巨大なガラス装飾を掃除する際には、夜11時に閉店したあと男子店員10人ほどが総出で、吊り下がるチェーンを1本1本外して薬液に浸けつつ、朝までシャンデリア掃除だけをやっていたほどだ。僕は、高校を出て金沢から上京後すぐの79年春、ここで働き始めた。インベーダーゲームが大人気、駿河台を歩く明大生女子がハマトラに身を包んでいた頃。

 オープンカウンター内からお客さんを眺めながら、日々、珈琲を50杯ずつ何度も淹れ、100食単位でナポリタンを炒める。プリンアラモードの笹形リンゴを10段以上に次々と切り、30個分のレシピでプリンを焼き、キャベツの千切りで指を血で染めた。ここで働きここで友ができ酒を飲み喧嘩をし、そして、いくつかの恋をした。3年半経って、最後の店員のひとりとなる。
 今思えば、「あんな素敵な場所に毎日身を置いていた幸せ」となるのだけれど、とにかく生きていくことに必死な若造は、そんな感慨にふける余裕などなかった。なんともったいない……。朝から夕方まで芸大浪人生として予備校、夕方からは、とてつもなく忙しい巨大純喫茶で、主にカウンターマン、ときにホールで接客という生活。
 でも、当時は気付いていなかったが、毎日7時間、否応なしにクラシック音楽が染み込んでくるのは至上のやすらぎだったのかもしれない。入口近くに大きなガラス張りのレコード室。そこには、お客さんのリクエスト曲を受けて、プレーヤーに針を落とすレコード係の女性店員が。その部屋の横から続く壁面すべてがガラス棚でレコードがぎっしり。おぼろげな記憶では、5000枚あったとような。毎晩8時に店内全部のゴミを出すのだが、その合図としてかかる「パッヘルベルのカノン」は、今聴いても「丘」の隅々が蘇ってくる。35年後の僕にとってあの曲が、純喫茶への憧憬そのものかもしれない。

 そんな体験から無意識下で惹かれる純喫茶についてネット検索していたある時、難波さんのブログ「純喫茶コレクション」に出逢う。全国を巡る純喫茶の紹介は気負いがなく、肩に力が入っておらず心地良かった。文面の端々から、ああ、この方は若いようだけど、心から純喫茶が好きなんだな、とわかる。そうして数年ちらちらと見ているだけだったが、2013年春、書籍『純喫茶コレクション』を購入するとすぐ、「本をプロデュース・編集させて頂けませんか?」とアポを取った。惜しい! と強く思ったから。
 小さくてかわいく、素敵な仕上がりの本ではあったけれど、膨大に訪れている軒数も、写真のカット数も、文章の長さも、純喫茶ラバーとしてはことごとく物足りない。これでは難波さんからこぼれ落ちている純喫茶愛がもったいないな、というのが正直な感想。ならばさらにゴリッとした、純喫茶という文化と魅力を残すような本を作りたいと。
 
 そういう経緯で2014年夏に刊行が決定。純喫茶について考えることが増えると、記憶の隅に追いやられていた幼い頃の思い出が逆流してくる。当時、金沢は人口比の喫茶店数が全国でトップだったと聞いたことがあるが、たしかに市内のそこかしこに喫茶店があった。金沢市民が珈琲にかける金額が全国1位だそうだが、それも実感できる暮らしぶり。
 父親は社会人として逸脱した貧しい自由人だったが、マイカップをキープしている店もあったほど喫茶店が大好きだった。香林坊裏の保育園に僕を迎えに来た帰り道、パチンコ屋に一緒に入って少し勝つと、よく喫茶店に連れて行かれた。今もある「純喫茶ローレンス」がオープンしたのはちょうどその頃。他に、2006年になくなった片町「ぼたん」など、小学校に入る前からたくさんの店に行った。その頃はさすがに珈琲ではなくクリームソーダがお決まりで、緑色の泡をぐるぐるかき混ぜてアイスクリームをゆっくりと溶かしながら大人たちの会話に聞き耳を立てる。金華山ゴブラン織りの椅子に座り野球の話をする営業マンたちがいる。出勤前のクラブのお姉さんは香水の匂いを漂わせてピンク電話から電話をかけている。
 時に父と並んでカウンターに座り、白いワイシャツ姿のマスターがサイフォンで珈琲を淹れる一挙一動に見入っていた。子供心に、そんな、かっこつけない日常風景が織り込まれる純喫茶は、心落ちつく居場所として僕の中に定まっていったのだろう。そして記憶はさらに巡る巡る。
 2番目の母親を父に紹介されたのは繁華街の純喫茶だった。5歳かな。そうだ、3番目の母のときも12歳でまったく同じ状況、場末だがやはり純喫茶だったじゃないか……。考えてみると、人生の節目となった大きなステージがそこだったのか。じわっとそんなことに思い至る。
 
 初めて足を踏み入れてから50年、純喫茶は僕の中で一軒一軒、記憶という形で残ってきた。みなさんも同じように、純喫茶にゆったりと身も心も委ねた記憶を、ひとりひとりの中で無形の存在として大切にしているはず。
 しかしその素敵な居場所がどれだけ好きであっても、現実として、なかなか時間を割いて多くのお店に行けるものではない。みなさんの大部分がそうだろうし、僕も同じ。
 だから。こうして1000軒を超える貴重な記録を、いや、心弾ませる記憶を、形に残してくれる難波さんに最上級のリスペクトを捧げたい。今、こうしてこの本に出逢い、難波さんの心の中にある純喫茶を巡っているあなたと僕は、とても幸せ。

石黒原稿ページ 丘 マッチ
丘のマッチです。

金沢の喫茶店についてのブログ

当時より10年前ぐらいの御茶ノ水の写真がたくさん

当時の御茶ノ水について

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