G・D グリーンバーグ 年譜
George Dixon Greenberg

1929年1月16日、歴史的な豪雨の日に、ドイツ系ユダヤ人の移民の子としてサウス・カロライ ナ
で生まれる。ちなみにこの前日、ジョージア州アトランタ市で生まれたのがマーティン・ルー サー
・キング(キング牧師)である。

幼少の頃から非常に早熟、数学や歴史学に興味を持ち、また当時から東洋、特に日本への強 い関心
があったと言われる。一方で運動神経にも優れ、ハイスクール時代は、アメリカン・フッ トボール
のワイドレシーバーとして卓越した成績を残すも、右膝靱帯損傷という、当時としては決定的な
故障により断念。以後、勉学に没頭することとなる。

さて、ここからの経歴の中で、G.D.Greenberg本人の意志により大学名を秘匿する。これ
は、その大学による「屈辱的な仕打ち」(後述)の結果、その大学出身である事実そのものを
「ミシシッピ川の源流に捨てた」(本人談)ためである。というわけでここでは、経歴書原文に
おける表記に沿って、スタンダードナンバーから名を借りた「ルート66大学」と記す。

1945年、ルート66大学に進学し、労働経済学を専攻。しかし幼少の頃からの幅広い興味は
彼の研究を経済学に留まらせず、計量経済学や、ときには理論物理学など、きわめて様々な
研究室に雑食的に顔を出し、同大学の名物学生「グリーニー」(ニックネーム)として名を
はせる。

1955年、ルート66大学で博士号を取得。

このような彼の輝かしい大学生時代に影を落とすのが、マルクス主義への傾倒である。彼自
身多くは語らないのだが、いわゆる「赤狩り」によって大学当局から受けた屈辱的な仕打ちが、
彼のアメリカ嫌いを決定的なものにし、後年の日本移住につながっていくこととなる。

博士号取得後、そのままルート66大学教授として教鞭をとり、画期的な論文を発表しつづけ
た。いかめしい教授がパイプを加えこの世の終わりのような顔つきで講義をする経済学部の
雰囲気の中、「陽気なDr.グリーニー」と学生に親しまれる個性的な教授として、楽しく教師生
活を過ごした。

この頃まではスイングジャズやカントリーを人並みに聴く程度であったが、この頃からはロック
ンロールや黒人音楽にマニアックにはまり出す。飛行機事故で亡くなる直前のバディ・ホリーを
観たことが彼の一番の自慢。研究室の壁はレコード盤で埋め尽くされていた。

1970年、「大阪万博」のため来日。アメリカの公的な教育機関からの派遣の形で来日したの
だが、このとき聴いた日本の音楽(万博会場で観たのっぽのフォークシンガー=おそらく加藤
和彦だと思われる=が忘れられないとのこと)や、日本食、そして美しい日本の街の風景に強
く魅せられる。

そして1976年、彼が47歳のときに勃発した「私の尊厳に関する決定的な事件」(本人談)があ
り、ルート66大学教授の座を自らの辞すこととなる。その詳細は決して語られることはないが、
建国200年祭に対する批判的な発言、また上記「赤狩り」とのつながりや、それ以外にも、彼
独特のいくつかの反政府的な発言が関係している模様。本人が決して口を割らないため詳細
は不明。すべてはミシシッピ川の源流に???。

その後、彼が向かった先は、1978年の日本である。

当初は軽い気持ちで、関東や、九州、関西のさまざまな大学に赴き、客員教授や特別講師として
教鞭を執っていたのだが、だんだんと日本を離れがたくなり、そのまま、なんと現在まで日本に
住みつくこととなった。

そのひとつの理由として音楽がある。サザンオールスターズにはじまり、日本のロックや歌謡曲に
極度にハマり、いまや音楽評論家なみの知識を持つ。また日本語もかなり達者。本人が書く文章は
「日本人が書いたよう」というレベルの評価を超え、「この理屈っぽい文章を書く日本人は
誰なんだ?」と噂されるレベルの独特な日本語を操る。

そして現在83歳、しかし187センチの身長、ほぼ贅肉のない身体、仕立てのいいブレザーを
着て、埼玉県川越市の街を闊歩する姿は、まるで60代のようだ。「陽気なDr.グリーニー」で
はなく、「日本人よりも日本を愛し、そして日本人よりも日本語がうまいガイジン・ジジイ」
(本人談)としていま、世間の話題となっている。